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9. チュッちゃんに、会いたい… ―分娩室に入ってから、30分あまり。 「…赤ちゃん、まだ見えませんか…?」 …あたしは、すがるような気持ちで聞いてみた。 「……」 少しの間のあと、 「大丈夫、だんだんと進んでいますよ、…大きい赤ちゃんなので、やっぱり時間はかかります」 助産婦さんは、励ますようにそう言ってくれた。 …そう、 チュッちゃんの推定体重は3600gを超えていて、 また、頭囲よりも胸囲が大きいので、 頭が出た後に肩が出ないなどの難産になる場合もある…と先生から言われていた。 どうなるんだろう…。 …次第に、皆無口になっていく。 なんて静かなんだろう…。 こんな一大事なのに、 あたしは、自分でも驚くほど冷静だった。 「……もっと騒ぐかと思った…」 陣痛を待つ間、 うなり声ひとつあげないあたしを見て、友達が小さく言った。 確かに…、 こんな時なのに、あたしはどうかしてる。 誰に対してカッコつけているのかなんて判らないけれど、 とにかく、 どうしても、き然とした態度で居たかった…。 …チュッちゃんには、 優しさと、強さを併せ持った子になってほしい。 …そう思うから…。 あなたの命が輝く瞬間には、 ママも強くありたいんだ。 痛みになんか負けない。 第一、こんなに幸せな痛みなんてない。 風友を産んで、 もう一度、 今度はあなたを抱きたいと思ったのは、 どうしてだと思う…? 「……んーー……っ!」 …目の前の照明が霞む。 力いっぱいいきんだ後、 あたしはまた、力尽きて頭を垂れた。 「…だんだんと、赤ちゃんが見えてきましたよ!」 …もう、どこから力を振り絞ればいいのかわからなかった。 体はあちこち麻痺するように痛み、 額に当てられた友達の濡れた手のひらで、自分が汗をかいていることに気付いた。 「水飲む…?」 旦那さんに首を支えられながら2度3度水を飲むと、 喉を流れるその冷たさに、わずかながら気力がリセットされた。 ここからはもう、…その気力だけが頼りだった。 「あと少しだよ!…赤ちゃん見えてきてるよ!」 …友達が懸命に応援してくれる。 あたしは頷くと…、 今度は、反対側にいる旦那さんの顔を見上げた。 「…頑張れ、頑張って!」 …本当はきちんと見えているのに、 今、旦那さんがどんな表情をしているのか、 この時のあたしは…よく認識出来なかった。 …だけど解る。 この右手をしっかりと握ってくれているこの人は、 あたしと同じくらい、チュッちゃんに会える日を待ち望んで来た。 痛みは伝えられなくても、 気持ちは共有できる。 『チュッちゃんに会いたい、抱きたい』 そう思う気持ちが力になる。 この手が力になる。 …あたしは、無言で強く頷いた。 こんなにもあたしは、この人を頼っている。 そう思った瞬間だった。 ―分娩室は、静かな慌ただしさを帯びてきていた。 すると次第に、 陣痛とはまた違う、外面的な強い痛さが襲ってくる。 …痛い、痛い…! …あたしは、すぐに状況を飲み込んだ。 産道に、いよいよチュッちゃんの頭がひっかかってきてるんだ…! …あたしは、いよいよ最後の気力を振り絞っていきんだ。 それはまるで、 焼け付き、裂けるような痛さの中に、更に飛び込んでゆくようなものだった。 けれど…、 いきむ度に、チュッちゃんが産道を進んでいるとゆう感覚は伝わってくる。 そう…、 痛さなんて、今はどうでもいいのかもしれない。 普通では考えられないような状況に、あたしの体はあるんだ。 「…次にもう一回いきんだら、ハッハッ…と、短い呼吸にしましょう!」 …助産婦さんが大きな声で言った。 あたしは旦那さんを見上げる。 旦那さんは、祈るようにチュッちゃんの姿を待っている…。 …すると、 先生が分娩室に入ってきた事が気配で解った。 あと少し…。 …チュッちゃん、 チュッちゃんもどうか、頑張って…! 「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ………」 …ひとつの産声をこんなにも待っている。 この空間は、信じられないくらいに静かだった。 あたしは、強く祈りながら目を閉じる。 …短い呼吸を指示されたら、 ここからは、力を抜いてチュッちゃんが出てくるのを待つだけ…。 だからもう…、 あたしは、…自分の役目は終わったと考えてしまった。 情けないことに、 『早く出て…、早く出て…!』 と、頭の中で繰り返していた。 「今が一番痛いよね…、頑張って…!」 友達と助産婦さんが、どちらかともなく口々にそう言う。 けれど…、 チュッちゃんは、なかなか出てこない。 …おかしい! 風友の時は…、 短い呼吸になったら、1分もせずに産まれたのに! 「………ハァッ、ハァッ…」 …不安が頭をよぎる。 すると…、助産婦さんの懸命な声が聞こえた。 「…もう一度だけいきめますか?大きな赤ちゃんだから……もう一度だけ!」 …そして隣からも。 「頑張って、もうすぐ赤ちゃん出るよ!」 友達が励ましてくれる。 …分娩台の照明が、涙で細長く滲んだ。 周囲の激励を受け止めると、 あたしはゆっくりと…、 次第に強くいきみ始めた。 後も先も何もない。 頭の中も、目の前も、ただ真っ白だった。 「…もういいよー、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ………」 再び、短い呼吸を指示される。 「……ハアッ、ハアッ、ハアッ…!」 あたしは、陸に上がった魚のように息を吐き出すと、 痛さのあまり、旦那さんの手をたぐり寄せてもがいた。 …苦しみと引き換えに、ひとつの命が産まれる。 なんだか頼りないママだけど、 チュッちゃんは、 ママを見てがっかりなんてしないよね…。 ママは、ずっとずっと会いたかったんだよ。 繋がっていたへその緒が、もうすぐ切られてしまっても、 ママとチュッちゃんは、ずっと一緒にいられるよ。 それが嬉しい。 なんて嬉しいんだろう…。 「…ほら!赤ちゃん出るよ…見て!!」 友達が、あたしの頭を支えて促してくれた。 「…………あ!」 旦那さんも声を上げる。 あたしも…、風友の時と同じように、 頭を上げて、チュッちゃんの姿を見つめた…。 …ママが、初めて見るチュッちゃん。 お顔は見えなかったけれど、 大きな、 堂々とした背中が見えた…。 次へ>> |





